年中温暖な海洋都市イシュワルドにも春が訪れた。
 世間では花見やら歓迎会やらで浮かれているのだが、ここ、第六特殊警備隊では、新人の入隊式が終わり、しばらくの間は新入隊員の訓練に時間を費やされる。そのため、花見はしばらくお預けの状態であった。
 現に練兵所では先ほどまで新入隊員たちの悲鳴が響き渡っていた。
「や……やっと終わった」
 過酷な訓練を乗り切った傭兵上がりの男が、肩で息をしながら呟く。
 周りの新入隊員よりも実戦経験があり、修羅場……とまではいかないまでもいくつかの戦場を潜り抜けてきた彼にとってさえ、ここの訓練はかなりきついものであったのだろう。
「はい、どうぞ」
 つかれきった彼に、この隊の補佐をしているリンテレットがスポーツ飲料を手渡す。
「すまない」
 彼は苦笑いを浮かべながらその飲料(決してジュースと呼べるほどおいしいものではない)を飲み、袖で口を拭きながら尋ねる。
「ヘルシンキ隊長はどうしたのです?」
「隊長なら、他の隊の訓練に行きました。今年はいい新入隊員が大勢入ったらしく、どこも人手不足なんですよ」
 苦笑いするリンテレット。
「そんな……」
 彼は愕然とする。ヘルシンキもまた、彼がついていくのがやっとだった訓練とまるっきり同じことを行っていたのに、休まずに他の訓練に行くなんて。
「隊長は化け物ですか?」
 彼が思わずそんな言葉を漏らす。
 それに、リンテレットはため息をつくしかなかった。
「そんなことありませんよ。隊長も人間です。それなのに、私が止めるのも聞かずに働いていて、身体を酷使していたら、いつか……」
「おぉいっ!」
 リンテレットの言葉をさえぎり、遠くから警備隊の隊員が駆けつける。
「ヘルシンキ隊長が過労で倒れたそうだ!」
 彼女の心配が杞憂でなかったことが証明され、午後の訓練は中止となった。


「すまないでござる」
 病室で、思ったより元気そうなヘルシンキが無表情で謝る。
「謝るなら最初から無理しないでくださいよ」
「そうだぞ、ヘル。お前が倒れたら誰が俺の隊の訓練をするんだよ」
 横でディリークが頷いて言う。
「ディリーク隊長がヘルシンキ隊長に無理言うから。それに、隊長のことだから、きっとダッツ君のところにも手伝いに行ってたんでしょ」
 ダッツは最近隊長になったばかりで、こういう訓練には慣れていない。だから、時々ヘルシンキが手伝いに行っていることもリンテレットは知っていた。
「面目ない」
 反省している隊長を見て、リンテレットはため息をつく。言葉遣いの変なヘルシンキだが、どこまでも真面目な彼をあまり責めることもできない。それに、今は一応病人なのだ。
「隊長。とりあえず、新入隊員たちの訓練は私に任せて、隊長は三日くらい休んでください」
 医者は即日退院しても問題は無いといっていたのだが、リンテレットは医者に頼んで彼を入院患者にしてもらった。こうでもしないと彼はまず休みをとらないからだ。
「しかし、そういうわけには……」
「お医者さんの言うことは絶対ですよ。シスターにも連絡をとりましたから、きっとお見舞いに来てくれますし」
 ベッドから起き上がろうとするヘルシンキを無理やりベッドに押し込みながら、リンテレットは笑って言う。
 そうこうしているうちに看護師数名がやってきて、ヘルシンキに点滴の準備を始める。
 リンテレットは帰ろうと、何気なく窓の外を見て、気づいた。
 病院の中庭にソフィアがいたのだ。
 だが、一人ではない。
(え? シスターが男の人と一緒に?)
 若い男と楽しそうに話しているシスターを見て、リンテレットはヘルシンキに別れを告げ、思わず病室を飛び出した。


 リンテレットはソフィアに気づかれないように、近くの茂みの中に入り込む。
「おま……なんでリンテレットも来てるんだよ」
 茂みの奥で思わぬところに思わぬ人物がいた。
「ディリーク隊長っ! どうして……」
 いつの間にか病室からいなくなっていたと思ったら、こんなところにいたなんて。
「そりゃ、シスターがあんなところで……と静かに。気づかれる」
 ソフィアと若い男の人が何か話している。
 幸い、病院の中庭だけあって辺りは静かなため、二人の会話は良く聞こえた。
「いやぁ、君みたいなシスターに出会えてよかったよ。もしよかったら、この後、街の案内とかしてもらえない? オレ、この街来たばっかでさぁ」
 いかにもナンパ口調の男は、シスターの肩に手を回す。なれなれしい事この上ない。
「いえ、これから友人のお見舞いに行くので」
 シスターがやんわりと断る。
(若いねぇ。あのシスターがそう簡単にデートの誘いに乗るわけないだろ)
(そうですよね)
 芝生の陰からリンテレットとディリークがこそこそと話す。
「じゃあさ、明日は暇?」
 断られたばかりの男は、それでも臆さず、さらに誘いを続けた。
 すると、今度はソフィアはなにやら考えて、
「はい。明日のお昼ごろでしたら時間が空いてますけど、その時間でよろしいでしょうか? レミュオール広場の噴水の前でお待ちしておりますので」
(…………っ!?)
 ディリークとリンテレットが同時に無音で驚く。
「オーケーオーケー。じゃあさ、これから三十分くらい喫茶店で明日の予定考えようよ。お見舞いならその後でもいいでしょ?」
「はい。では、参りましょうか」
 終始笑顔で二人は近くの喫茶店に向かっていく。
 二人の姿が見えなくなったところで、リンテレットとディリークが外に出た。
「驚きましたねぇ。シスターがあんなに簡単に……」
「もしかして、ああいうタイプに弱いのかね? ヘルと正反対じゃねぇか」
「ですね。でも、ヘルシンキ隊長が見ていなくて本当に……」
「拙者がどうしたでござるか?」
 唐突に聞こえてきたその言葉にリンテレットとディリークが振り返る。
 そこに、点滴したままのヘルシンキが立っていた。
「どどどどど……どうしてヘルシンキ隊長がここに?」
「散歩でござるよ。病室にいるだけでは気が滅入るだけでござるからな」
「そ……そうですか」
 笑いながらヘルシンキは答え、病室に戻っていく。
(ほっ、どうやら、ソフィアさんたちのことは見ていな……いえ、見てるわ。こりゃ)
 裸足のまま外に出てきたヘルシンキを見て、ヘルシンキの動揺は大変なものであろうことに気づいた。
「ヘルの奴、こりゃ今夜は眠れないんじゃないか?」
「隊長、思いつめて自殺とかしないでしょうか」
 リンテレットとディリークはヘルシンキの向かっていく病室を見つめて、最悪の事態を想像していた。


 あれから三十分後。ヘルシンキの部屋にやってきたソフィアは、まずリンゴの皮を向いて切り分け、ヘルシンキに食べさせる。まさに模範的な看病であった。
「ソフィア。すまない。お主も仕事があったでござろう」
 もちろん、「はい、あ〜んして」なんてことをせず、ヘルシンキは受け取ったお皿のリンゴをフォークで食べていく。
「気にしないでヘル君はゆっくり休んで」
 そう言いながら、ソフィアは持ってきた切り花を花瓶に移し変える。
「う……うむ」


 ソフィアは至極自然なのだが、ヘルシンキがなにやら戸惑っている。
 その二人を、午後の仕事をさぼってきたディリークと、ヘルシンキの世話のため、少しの間休憩をもらったリンテレットが覗いていた。 
(あぁ、全然会話が進んでいない)
 その二人を見て、リンテレットはディリークに話を切り出す。
(ディリーク隊長。明日のデートですけど、もしよければ、その時間の三十分くらい前にヘルシンキ隊長のお見舞いに行ってくれませんか? あのままだと、隊長、病院を抜け出してデートを潰しに行くか、自殺でもしそうですよ)
(そういうのはリンテレットのほうが適任だろ?)
 めんどくさそうにディリークが答える。
(私はシスターとあの男の人のデートを見に行きます)
(やれやれ。自分の恋がうまくいっていない人間に限って、人の恋に口出しするんだよな」
(ただ、私はシスターがあの男の人に変なことされないか心配なだけです。それに、その言葉は隊長には言われたくありません)
 言い合う二人を、通り過ぎる看護師が気味悪そうに見ていた。


 あっという間に翌日になる。
「やべ、寝坊した」
 休日の癖で、ディリークは完全に寝過ごしていた。
 どのくらい寝過ごしたかというと、今、まさに二人の待ち合わせの時間なのだ。ヘルシンキがもしも二人を尾行しているのなら、この時間からヘルシンキの病室に行っても全くの無駄になる。
 そして、その通り無駄であった。
 病室のヘルシンキのベッドはもぬけの空だったのだ。
 近くの看護師を捕まえて話を聞いたところ、気分転換の散歩ということで、一時間だけの外出許可をもらったそうだ。
 だが、それでヘルシンキの自殺の線は消えた。
 彼の性格からして、彼は自殺をするなら誰にも気づかれずに病室を抜け出すはずだ。外出許可を取って自殺をしたら、許可を出した人間に責任がかかる。
 いくら精神が崩壊しかけていたとしても、そのようなミスをする人間ではない。
「じゃあ、後はリンテレットに任せて……」
 家に帰って二度寝でも。そう思ったとき、中庭でいるはずのない人を見つける。
「ん? あの男」
 それは、今、ソフィアと一緒にデートをしているはずの男であった。


 待ち合わせの時間から三十分が過ぎた。
 ヘルシンキの外出許可は残り十五分を切っている。
 だというのに、待ち合わせ場所にいるのは、ソフィア一人であった。
 もう一人の男が現れない。
 その彼女を見つめる影が一つある。
 ヘルシンキであった。
 彼は、怒っている。
 本人がどれだけ否定しようと、彼は怒っている。
 頭から湯気が出るのではないかというくらい顔を真っ赤にして、限界突破して脳の血管が切れてしまうのではないかというくらい。
 噴水の前で、行きかう人に優しそうに挨拶をするソフィアを見て、ヘルシンキの怒りは収まるどころかさらに強くなっていく。
 そして、思わず叫んで飛び出した。
「ソフィア」
「ヘルくん? 病院はどうしたの?」
 思わぬヘルシンキの登場に、ソフィアは驚いて目を丸くする。
 だが、ヘルシンキはそんなことお構いなしに、周りの「何事か?」という視線もお構い無しに叫ぶ。
「ソフィア。それより、いつまで待っているつもりだっ!」
 言われて、ソフィアは「そうね」と小さく呟く。そして、なにやら考えた後、
「じゃあ、ヘルくん、一緒に行きましょ」
「は?」
 今度はヘルシンキが目を丸くする番だった。


「そりゃ……まぁ、災難だったな」
 待ち合わせの場所に現れなかった男は、ディリークと話していた。
 一通り話を聞き終えたディリークは男に、慰めの言葉をかける。
 ただ、やはりナンパした相手が悪かったのだ。それに、ナンパするときに、「オレ、この街に来たばかりでこの街のこととかよく知らないから、案内してよ」というのもいけなかった。
 何しろ、信神深い彼女にとって、この街の歴史は神とどうかかわってきたかの歴史なのだ。彼女の説明はとてもありがたい、だが心が黒かった彼にとっては親の説教よりも厄介なものだった。たった三十分、喫茶店で話を聞いただけなのに、十年分は老けた気分になる。さらに厄介なことに、喫茶店で「ソフィアと同じもの」を注文した彼はハーブだけの昼食をとる事になってしまった。
「はい。オレ、真面目に生きてみようと思いますよ。そうしないと、神様に天罰が下ると思います」
「あぁ、お大事に」
 一応笑みを浮かべる男を、ディリークは見送る。
 ちなみに、彼は今日、栄養剤をもらいに病院に来ていた。
 きっと、彼はこれから真人間になって働くことだろう。


 一方、誤解がとけたのはヘルシンキも同じであった。
「すると、あの男には、この街について話しただけでござるか?」
「えぇ」
 ソフィアが頷く。彼女の街の案内には、はなから他意はなかったのだ。
 教会でステンドガラスから差し込む光を浴びながら、ヘルシンキは小さく笑う。
「ヘルくん、どうしたの?」
「心が洗われたような気がするだけでござる」
 そして、彼は再度少し笑った。
「そう」
 ソフィアも微笑む。
 それに、ヘルシンキは照れたのか、頬を赤くする。
「っと、拙者はそろそろ失礼するでござる。早く帰らないと、看護師殿達が心配しているかもしれないゆえ。身体は大丈夫なのだが」
 本当に、ヘルシンキの身体は全然大丈夫だった。疲れが取れている。
 だが、それはおそらくゆっくり休んだだけではないだろう。
 もっとも、その本当の理由は、今のヘルシンキにはわかっていなかった。

 年中温暖な海洋都市イシュワルドにも春が訪れた。
 だが、いまだデバガメを続けるリンテレットと、二度寝を始めようとするディリークの春はまだ遠そうである。
「くしゅん」
 教会の一番後ろの席の裏で、若い女性がくしゃみをした。