今日の聖レミュオール広場も賑やかだ。
 仕事が終わったフィルは広場を歩いていた。本日の仕事は昼過ぎまでのものが一つ。他には特に気をひくものがなかったので、
フィルはギルドを後にすることにしたのだった。
「うん。仕事を少しは選べるようになってきて良かったなぁ」
 ギルドのランクも一つ上がった。午前中で仕事を切り上げる日がたまにあっても大丈夫になってきた。
「ただがむしゃらに働くんじゃなくて、何か得意なことを仕事にいかせるといいんだけど」
 生活のためにひたすら働いていた時期もあったけれど、少しは自分について考える余裕が出てきた。
 このままでいいのかな。でも、俺って何が得意なのかも分からないし。
「うーん、このまま考え続けるよりは、トイレ掃除の仕事でも引き受けていた方が良かったかも…」 
 溜め息をついて、首を振った。そして顔をあげた。
 辺りにまき散らされる噴水のしぶきは、太陽の光に反射して輝いていた。
 このもやもやとした気持ちも、噴水と一緒にどこかへ行ってしまえばいいのに。少し離れた所から、フィルはただ噴水を見つめていた。そして気がついた。
 向こう側に見慣れたツインテールが揺れている。イヴだ。
「イヴちゃん!」
 気を晴らしたくなって、フィルは彼女に声をかけた。イヴと一緒にいたら、少なくとも暗い雰囲気にはならないはずだ。今は、あのテンションに押されたい。
 しかし、フィルの期待通りにはならなかった。彼女の反応はなかった。
 水の音が邪魔をしているのかもしれない。
 近づいてみると、イヴはスケッチブックをじっと見つめている最中であった。手には木炭を持っている。カンバスにはうっすらと線が引いてある。まだはっきりとは分からないが、おそらく噴水だ。
 こんなに集中しているのに、邪魔をしてはいけない。声をもう一度かけてはいけない。
 そう思ったのでフィルはそのまま去ろうとした時に、イヴは顔を上げた。
「フィル君!」
「あ、やあ、イヴちゃん」
「もしかしてイヴに会いに来てくれたの? やっぱりラヴのなせること? イヴちょーカンゲキなんだけど!」
 木炭を置いて、イヴはフィルに抱きつこうとした。
「ちょっと待って!」
「って、ゴメン。イブの手今木炭で黒くなってるから、服汚れちゃうねっ」
 そう言いながらフィルから三歩下がり、汚れ始めているタオルで手を拭いた。
「それで、フィル君はイヴのために会いに来てくれたのよね!」
「いや、仕事が早く終わったから、何となく広場をうろついていただけなんだけど。それでイヴちゃんを見つけて」
「もー、ここでフィル君がイヴに会いたくなったからって言って、それからデートの約束でもしてくれたらイヴ頑張るのに!」
 やっぱり期待した通りのテンションだった。ここでイヴと喋っていたら、もやもやを少し取り除いてくれるかもしれない。何となく落ち着きそうだ。
「イヴちゃん、絵を描いているんだね」
「うん。やっぱりイヴみたいな美少女が毎日お店経営なんて美容にも悪いもの。時間ないから簡単なスケッチしかできないんだけど、やっぱりアートな感性をちょっとは刺激しないとねー」
 喋りながら、イヴは木炭を持ち直し、フィルを見た。
「ねぇっ、せっかくだからフィル君モデルになってよ!」
「えっ、俺が?」
「そうそう。噴水だけじゃどうもインパクトないと思ってて。フィル君が座ってたらカンペキよ! さっ、こっちこっち。イヴの言う場所に座ってよ!」
「えーと、ちょっと!」
「この前絵師の卵のモデルもしたって言ってたでしょっ。だから、イヴにもモデルしてくれたっていいと思うのよ。お礼もするし、さっ、こっち座って!」

 ということで、フィルは噴水の前に座らされた。正面にイヴはスケッチブックを置いている。
「うんとね。もうちょっと右手を自由にする感じで。うん、そうそう。……ヤダ、フィル君マジでステキなんだけど!」
「あ、ありがとう──」
 確かに以前モデルの仕事をしたことはある。ただ、よく知らない相手だったあの時の方が気楽だった気もする。
 でも、俺、モデルしようと思ってイヴちゃんに話しかけた訳じゃないのに…。
 少し考え事をしていたら、気付かれたようだ。木炭を持っているしばらくの間黙っていたイヴは、少しイライラした声を出した。
「もう、フィル君うつろな表情にならないでよ! 考えるなら、イヴが可愛いとか、イヴが大好きだとか、そういうイヴのことだけ考えてて!」
「うん、ゴメン……」
「そうそう。そういうのがイヴは大好きなんだから!」
 そう言って、イヴは筆に水を付け始めた。色を付け始めるようだ。
「そういえば、フィル君今日は何の仕事してたの?」
「アカデミーの試験鑑査員だよ」
「へぇ。アカデミーか。懐かしいなー。イヴ、勉強もだけど、絵を描いたりするの頑張ってたのよねー」
 それきり、イヴは喋らなくなった。視線をそちらへやると、スケッチブックを見て、景色を見て、フィルを見て、木炭で線を引くイヴがいた。フィルを見る目がいつものものとは違っていた。あくまでモデルとして彼を見ているらしい。ツインテールはイヴの目線が動く度に揺れている。
 そんな彼女の姿を見て、思わず呟いてしまった。 
「イヴちゃんは凄いなぁ……」
 邪魔をするつもりは全くなかった。何となしに出た。イヴに向けて話していた訳ではなかったが、彼女の耳に入ったらしい。何回かまばたきをして、イヴは絵を描いている時とは違う目で見た。どちらかというと普段のフィルを見る目で。
「どうしたの? イヴは確かにすごい美少女だけど、やっぱり改めて呟きたくなっちゃうくらいイヴって魅力的?」
「そういうことじゃなくって、俺はそんなに得意なことってないからさ。イヴちゃんの才能って羨ましいんだよね。凄く。尊敬する」
 イヴと話す前、噴水を見ながら考えていた。
 自分の得意なことって何なんだろう。
 憧れるものはある。でも、自分は結局何がやりたいんだろう。それが本当に自分がやりたくて、やれるものなのだろうか。
 アカデミーを二年で卒業するほどの才を持ち、親に言われてイヤイヤやり始めた海猫亭の食堂もかなり悪くはないように経営し、尚且つこうやって芸術面でも優れているイヴ。
 彼女のそういった面を見ていると、改めて感心する。
「えー、何言ってんの。そりゃあイヴは絵が得意だけど、フィル君がフィル君ってだけでイヴはちょー好きだし。フィル君も絵の才能じゃなくて、イヴだからイヴのことが好きだし。ラヴにそんなこと関係ないし」
「いや、ラヴじゃなくて」
「ラヴじゃないなら、この話は終わり! 絵に集中させて!」
「……はい」
 フィルはもう一度イヴの言う通りに座った。そしてもう一度イヴについて考えてみることにした。
 イヴは普段、フィルに「大好き!」など、「デートしよ!」など色々なことを言う。「素敵な彼氏」を作ることが夢であり願望である彼女で、フィルもその「素敵な彼氏」候補には挙がっているらしい。そのためか、フィルが普段見るイヴは、明るくて可愛くてフィルに物凄く愛想が良い積極的な女の子、というものだった。
 しかし、今日のイヴは少し違う。フィルにいつものように積極的な言葉を言いつつも、それよりも、今の彼女にとって重要な何かをやっているように思えた。
 彼女にとって大切な物に打ち込んでいる姿は、とても魅力的だった。フィルは正直見とれてしまった。
 ……確かに、イヴちゃんは素敵だ。とっても。
 これは言わないけれど。
 いつもの迫り方に対して、フィルとしてとても驚いて困ってしまうことが多いのは事実で、この気持ちを言ってしまっては、絶対に彼女はそうなる。だから言わない。
 ただ、普段の彼女とは違う側面を見ることができて、それが物凄く嬉しかった。


「よっし、できたわ!」
 イヴはフィルにスケッチブックを向けた。絵の中には噴水の前に座るフィルがいる。噴水の水は勢いよく飛び出している。後ろには屋台も見えて、何か買っている人が微かに見える。
 スケッチブックに描かれた水彩画ということもあり、かなりあっさりしている。しかし、描かれた世界には引きこまれる力がある。
「わぁ、凄いや。イヴちゃん」
 フィルは感嘆の声をイヴに向けた。
「もう、フィル君ったら、美少女な上に芸術的センスも持ち合わせているイヴちゃんって最高なんて、そんなこと言わないでよ〜」
「言ってないよ……」
「うーん、描けたけど、どうしよっかな。この絵」
 イヴは絵とフィルを交互に見た。
「そうねぇ、フィル君に──やっぱあげない」
「ええっ!」
 お礼ときいていたので、てっきりもらえると思っていたフィルは驚いた。
「やだ。フィル君ったら、そんなにイヴの絵が欲しいの? 代わりに、この絵あげるわ!」
 イヴはページを戻した。そこにはまた噴水が描かれていた。広場を行き交う人々が生き生きと歩いている。イヴはページを切り取って、フィルに渡した。
「ありがとう! 凄く良い絵だね!」
「そう? フィル君に言われるとイヴ更に頑張っちゃう!」


 遅くなったのでフィルには家まで送ってもらった。イヴは部屋の机にスケッチブックを置き、ページをめくり、今日描いた絵を見た。大好きなフィルがそこにいる。噴水の前に座っている。
「フィル君気づいたかしらね〜」
 フィルにあげた絵。
 一見広場と噴水を描いた、題材としてはごく平凡な絵だ。
 ただ、あの絵を描いていた時、水に映った自分を見て、描けるかどうか試してみた。歩いている人々の中には、イヴがこっそり紛れている。よく見ないと分からないが。
「フィル君がイヴの絵を持って、イヴがフィル君の絵を持つ。ちょーロマンチック。やっぱり、たまにはこういう可愛らしいことをやるのも、可憐な美少女らしいっていうか、ラヴには必要だと思うのよね」
 フィルが絵を受け取った時の表情を思い出した。普段、イヴが抱きついた時の表情とは全く違っていて、ちょっと嬉しいような悔しいような曖昧な気持ちだった。
「よーし、次からはアートなデートで誘ってみよっと。 待っててね! フィル君」
 イヴは絵の中のフィルに微笑んだ。