海洋都市イシュワルドにひとつの事件が起こった。
 話の主役はジェリーだ。
 早朝、複数もの住民がいくつものジェリーの残骸が並んで街中に落ちていたのを発見した。下水に多く生息するジェリーは、初心者冒険者の練習相手としてはポピュラーな魔物である。
 街に出てくる時もたまにある。しかし、いくら見かける頻度が多いとはいえ、道に死骸が連なっているということはない。
 街の住民としては衛生面としても、精神面としてもあまり良いものではない。
 美観を損なうし、ジェリーについた何かの菌が繁殖して感染症が流行っても困る。
 何よりも、得体がしれない。
 それについて知った時、人々は驚き、不快に思い、一抹の不安を感じ始めた。
 
 朝、ルヴェルは入荷されてきた新聞の束を棚に置き、一番上にあるものを手に取り、食卓へと持っていった。需要があり仕入れ始めたイシュワルド新聞であるが、その一部は自宅用としている。
 ジェリーの話はあまり目立つ所には載っていなかった。ルヴェルも運ぶ途中に軽く紙面を見た時には気づかなかった程度のものだ。
 朝食を終え、改めて新聞を読んだルヴェルはジェリーの記事に気がついた。
「気味が悪いものですのぅ。師匠」
 読み終えたルヴェルは師に言った。新聞の記事というものは、何かしら雑談のネタになる。彼女を退屈させない方が、ルヴェルの身も心も安全だ。
 しかし、ティコの反応は返って来なかった。顔を上げ見てみると、彼女の首は上下左右に揺れていた。目もあまり開いていない。
 そういえば、いつもは大食らいの彼女であるのに、朝食の時も欠伸ばかりをしていて、あまり積極的に手を付けようとしていなかった。ルヴェルは首を傾げた。
「師匠、今日はいつにもまして眠そうですじゃ。どこか具合が悪いんですかのう?」
「……昨日はちょっと頑張りすぎたのよ」
「頑張ったとは、加工をですか?」
 しかし、師匠はその問いには答えを返してくれなかった。
「……限界だわ。もうちょっと寝るわ。ルヴェル君、残りの準備はしておいてね」
「はぁ」
「おやすみ……」
 そうして寝室へ行くティコから、ふと生臭さを感じた。
「師匠、風呂には入ったはずなんじゃが……?」

 それから一週間経った。
 ジェリーの残骸はまだ落ち続けているという。しかも毎日だ。
 他に重要な事件もあったこともあり、当初は三面記事扱いだったジェリーの事件は、次第にトップ記事やそれに準じる記事へと移っていった。
 夜に誰かがジェリーを退治しているというのが新聞の推測だ。残骸を発見するのは決まって朝だからだ。
 しかし、その退治する姿を見たことがある人はいないらしい。
「夜にこっそりジェリーを退治して何か良いことでもあるんですかのぅ。師匠」
 聞いてみたが、返事は返って来ない気がしていた。何故なら、一週間ずっとそうだったからだ。
 新聞を読んでいるのは大抵同じ時間だ。今までだったらティコは新聞に載っているどんな記事にでも、何かしら反応を返してくれた。朝からそんなくだらない事件について話すなと機嫌を悪くするときはあった。
 しかし、目の前の彼女はただ黙って俯いている。たまに首が揺れている。
 元々朝の弱いティコであるため、このような時が全くなかったとは思わない。しかし、店を開いてから、ここまで眠そうだった日が続いたことはない。
 そして、やはり朝は生臭いものがまとわりついている。夜、眠る前には決してついていなかった臭いだ。
 本人もそれに気づいたのか、それはしばらくすると石鹸の匂いに変わっていく。
「師匠もどうしたんじゃ……?」
 朝に使われた風呂を掃除しながら、ルヴェルは首を捻った。
 排水口には、小さくなっているゲル状の何かがこびりついていた。
 ルヴェルはそれに目を止めたが、強く首を振った。

 更に一週間が過ぎた。
 新聞には新たな内容が載っていた。ある魔法研究家による発見のようだ。やけに長いその人名は、到底覚えたくなるものではなかった。
 彼によると、 ジェリーの残骸はただ無秩序にあったわけではないらしい。規則的に、一つの模様を描いているというのだ。
 しかし、これは現代の魔法にはない配列らしい。古代魔法に通じるものではないか。
 魔法研究者と新聞はそういう結論を出していた。
「師匠……」 
 呼びかけてみたが、ティコの様子はちっとも変わらない。
 いや、ますます悪くなっている。朝食の場にも、眠いといってあまり出たがらなくなっていった。
 そして、ルヴェルは昨夜気づいた。
 毎夜といってもいいほど繰り広げられていたティコのあの趣味が最近それほど行われないのだ。行われても、あまり熱が入っていないように思え、すぐに終わってしまう。
 アレがない方がルヴェルの心も体も健康なのは間違いないしそれは嬉しいのだが、違う環境というものは予想以上に不安になる。
 無反応で、下を向いている師匠と同じように、ルヴェルも俯いた。

 ゴトリ。
 その夜、扉が開いた音がし、ルヴェルは目が覚めた。
 ティコが帰って来たようだ。
 元々夜に出歩くのが好きな彼女だ。それ自体には別に何も違和感を覚えない。
 しかし、今まではルヴェルが出迎えないと怒っていた。最近は全く怒らない。むしろ、彼に気付かれないように、こっそり帰ってこようとするのだ。
「……一体何をやっているんじゃ? 師匠は」
 今朝の新聞の記事がふと頭に浮かんだ。
 古代魔法。
 そして彼の師は古代魔法を解している。
 今日の魔法堂の片づけはかなり時間がかかった。売れ残りが多かったからだ。訪れる客もよっぽどの常連がほんの少しだけだ。 
 その理由は分かる。
 皆もルヴェルと同じようなことを考え始めたのだ。
 ティコが、恐ろしいほどの実力を持つレミュオールの魔女が、古代魔法を使い何かをしようとしているのではないかと。街に呪いか何かをかけようとしているのではないかと。
「まさか。何だかんだ言って師匠はこの街を気に入っているんじゃ。街を本格的に呪うようなことがあるわけないのじゃ」
 しかし、朝、ティコから漂うあの臭いは、生を感じさせるものではなかった。
「まさか……」
 ルヴェルは強く首を振り、大きく首を振り、かけ布団を頭の上まで引き上げた。
 無理やり寝ようとすると、またあの臭いを思い出してしまった。
「まさか……」 

 翌朝、ルヴェルが開店の準備をし終わったころを見計らって、ヘルシンキが来た。ジェリーの残骸と魔法についての関連性の意見を聞きに来たらしい。
 ティコのことを知っている彼はあまり新聞の記事を信じている様ではなかったが、一緒に来ていた他の隊員の口元は固く閉じられ、手も握りしめていた。
 弟子に準備を任せている間に睡眠をとり、少しは口が回るようになっていたティコは「面白い意見ね」と答えていた。だが、何かかくしているのか、やる気がないのか、あまりはっきりとした結論は出していないようだった。
 ヘルシンキと隊員を見送った後は、日常通りに開店の時間を待つのみだ。ティコは陳列品を眺めている。最近出始めた新商品をもう一度確認しているようだ。
 この姿は、あの無反応な師匠ではない。
 あの無反応な師匠は嫌だ。人々から疑われている師匠も嫌だ。
 ルヴェルは意を決した。師匠と向き合うことにした。
 師匠が思った通りのことをしていなければ一番良い。もし、本当に呪いをかけようとしているのなら、それを精一杯止めるのが弟子である自分の役目だ。
「師匠」
 声をかけられ、振り向いた彼女はルヴェルの知っているいつも通りのティコだった。
 朝の彼女とは違い、家の石鹸の香りがするティコだ。
「どうしたの? ルヴェル君」
「夜……、一体何をしておるんですか?」
 ルヴェルの言葉に、彼女は一瞬驚いた顔をした。しかしすぐに表情を戻し「フフフ」と笑った。
「あら、気づいていたのねぇ」
「では師匠、本当に……!」
「ルヴェル君ったら、心配しなくても大丈夫よ。新聞の通りに呪いをかけているんじゃないわよ」
 口元に手を当てて、師匠は軽く頷いた。
「そうね、タイミングよく今日終わりだし、今夜は私が帰ってくるのをちゃんと待つのよ。良いことを教えてあげる」
 その後、店の入り口に行き、開店の表示を出した。
「夜が楽しみね」
 

「ただいま」
 深夜。店を開いてからならもう寝ている時間にティコは帰って来た。手に持っているのは小さな革袋だ。
 ルヴェルが準備した冷たいお茶を飲みながら、彼女は微笑んだ。
「あの残骸には深い意味はないのよ。ジェリーを上までおびき寄せて倒しながらこれを集めていたから、処分するの面倒で。こっそりなのは大騒ぎされると面倒だから。古代魔法なんて笑えるわね」
 そう言って革袋を指さした。
「それは?」
「ジェリーの体液五百体分よ。私はあるものを加工したくて、これを集めていただけなのよ。店に出さないものだから、シオちゃんやフィルに頼む気にもなれなくてね」
「そうじゃったんですか」
 ルヴェルは安心した。
 やはり、自分の知っている師匠だった。噂通りの街に呪いをかけるレミュオールの魔女ではなかった。
 しかし、店に出さないものとは何なのだろう?
 その表情に気がついたらしい。ティコはもう一度微笑んだ。先程とは少し質の違う笑い方で。
「思いついたのよね。ひんやりと冷たいジェリーの体液を使った新しいお仕置き方法を」
「え……」
「ルヴェル君、ちょっと待ってるのよ」
 ルヴェルの体が動かなくなった。恐怖で。
「し、師匠。ワシは今回何も悪いことしてないと思うんですじゃ!」
 抵抗のためにかろうじて回る口で必死に主張した。しかし、やはり師匠には通じない。
「あらぁ、私のこと疑ったじゃない? 師匠である私を?」
「疑ってないですじゃ! 誤解ですじゃ!」
「加工はすぐに終わるわ。久々だし、ちゃんとキレイにしてお仕置きしたいから、始める前にお風呂入らなきゃね。準備しておいてね。うふふふふ……ゾクゾクしてくるわ」
「それはこっちの方ですじゃー!」

 夜更けに悲鳴が響きわたった。
 しかし、その悲鳴が何度も聞こえる日が続いていったころ、ジェリーの残骸は見えなくなり、人々も怯えることはなくなった。
 たった一人。
 ルヴェルを除いて。