休日の朝。清龍飯店の入り口をくぐったフィルは、見知った顔に気づき、声をかけた。 「シバ、おはよう」 立ち上がった席の食器は空だ。あちらはもう食べ終わったらしい。 「早いね」 「まあ、遅くまで寝ている意味もないからな」 自分はたまには二度寝をしたくなるのだが、そういうものなのか。フィルは軽く頷いた。 「じゃあな」 そう言って、シバはあっさりと行ってしまった。商売が絡まないとなると、そんな人物だということは知っている。だからあまり気にせずに、フィルは店内を見渡した。 食事時の清龍飯店はいつもの通り混んでいる。空席はというと、シバが座っていた場所のみである。周りを確認しながらフィルが椅子をひくと、白い食器は下げられ、代わりに一杯の水が出た。 安くて美味しい庶民の味方。夏魚定食。悩む気もなく注文し、ひいたままの椅子に座ることにした。と、あるものを見つけた。 ポケットから滑り落ちたまま、気づかずに行ってしまったのだろうか。裏表紙側を上に向けた小さな本が置いてある。フィルはそれを手に取った。 『シバの日記帳』 驚いた。帳簿をつけている姿は想像つくけれど、日常のことを書き留める姿は想像できないからだ。そうだ、商売についての反省を日々書き留めているなんてことはあるかもしれない。 考えながら、椅子に腰かけた。 食事が終わったら、これを届けに行こう。フィルはコップの水を飲んだ。 「って、本日休業……」 シバの便利屋にはそんな看板がぶら下がっていた。 ここに来れば会えると思ったのだが、商売をしないシバなんて、珍しいこともあるものだ。住居の側も確認した。しかし、こちらにもいない。 「どうしたのかな」 今日は何か用事でもあるのだろうか。 フィルは首を傾げながら、ふと思いついた。 ひょっとしたら、日記にそのことが書いてあるかもしれない── 「いや、人の日記を見るなんて悪いことだし!」 でも、何が書いてあるかは少し気になる── 「いや、でも……」 日記の表紙を見た。 これを見れば、何かが分かるかもしれない── 「ゴメン、シバ!」 一言謝ってから、最後の日にちを確認するべく、フィルは大体のあたりをつけてページをめくった。 中身はかなり丁寧に、読みやすく書かれていた。軽く通しながら、何となくある一文に目が止まった。 『今日も早く起きた。客に眠そうな顔を見せてはいけないからだ』 「そっかあ。やっぱりそういうのって大切なんだなぁ」 適当そうに見える時もあるが、やはり商売人だ。客のことをよく考えている。フィルは感心した。 「でも、もうちょっと後ろのページだなぁ」 適当にページを探ろうとした時、向こうから足音が聞こえてきた。前を向くと、何やら箱を抱えたシバが歩いてくるのが見えた。 「あ、シバ! 良かった」 「どうしたんだ?」 箱を置きながら怪訝そうな顔をしたシバだった。しかし、フィルが持っている日記帳を差し出したのを見て、納得がいったように頷いた。 「忘れていたのか。悪いな」 「それでゴメン。俺、シバがどこにいるのか調べたくて、日記ちょっとだけ見ちゃったんだ」 「ああ──」 「でも凄いんだね! シバ! やっぱり商売の姿勢を考えているんだなって思ったよ!」 フォローをしなくてはいけないと思い、シバが何か言う前にフィルは感想を言った。その後も、続けてシバを褒め続けた。それに気を良くしたらしい。シバは軽く口元を上げた。 「まあ、お前も少しは商売のノウハウってやつを知ってみると人生得するかもしれないな。よし、日記を届けてくれた礼だ。 良かったら俺の商売の様子でも見てみるか?」 確かに、シバに一日付き合っても面白いかもしれない。 「でも、今日は店は休みなんだよね?」 「店はな。今日は訪問販売の日なんだよ」 そういえば、そんなこともしていた気がする。 「どこに?」 「水色の塔」 凶暴な魔物が生息しているという噂の場所だ。 「いや、それは」 「日記見たんだよな?」 「……行きます」 赤くなりつつある空を背景とし、大荷物を抱えたシバは上機嫌だった。 「どうだ? 俺の接客能力は」 「凄いよ。確かに」 殺伐とした雰囲気の塔内に相応しくない、シバの爽やかな接客を思い出した。後ろには何色ものジェリーが控えているのにだ。それらの相手をした自分も思い出した。 「……シバさ、商売の様子を見ないかって、俺のこと盾にしてなかった? あと荷物持ち」 今、視界をかなり奪うほどの荷物を抱えている。塔で手に入れた物ばかりだ。 「何言ってんだ。日記を見てしまったのにも関わらず、俺の商売のノウハウを見れて、シオにも会えただろ。一石二鳥じゃないか」 「日記見たことは悪いし、シオに会えたことは嬉しいけどさ」 ティコの依頼で水色の塔に来ていたシオは、シバと一緒にいるフィルを見て驚いていた。危ないから来ちゃダメだよ、と怒られもしたが。 シオの色々な表情を思い出したフィルは、荷物への注意をやや失った。落ちかけたので、慌てて持ち直した。シバが軽く睨む。 「おい、気をつけろよ」 「ゴメン。でもさ、これただのガラクタだよ。一体どうするの?」 「欲しいヤツはいるんだよ」 「ガラクタを?」 少なくとも、フィルにはこれらの使用法は想像つかない。一体どうするのだろうか。 そのまましばらく歩いていると、商店の並ぶ通りに着いた。夕飯の準備時だ。道行く人はかなりのものだ。そこで、フィルとシバは袋を持ったルヴェルに出会った。 「フィルとシバと大荷物なんて珍しい組み合わせじゃな。二人で引っ越し屋か運送屋でも始めたのか?」 「いや、違いますけど……」 確かにこの姿は引っ越し屋はともかくとして、運送屋に見えなくもない。 「ルヴェルさんは夕飯の買い物ですか?」 「まあな。あの鬼婆、今日の夕飯は茸汁だと言ったら、今日は何が何でもジンギスカンが食べたいと言ってのう。仕方がないから牛タンでも買おうかと考えているんじゃよ」 「その発想は俺にはよく分からないけど、お疲れ様です……」 結局何を作ってもティコはワガママを言うのではないだろうか。思ったが、深くは考えないことにした。 「おい、フィル。ちょっとこれ見てろ」 「へ?」 突然口を開いたシバは、荷物をフィルの足元に置いた。そしてフィルの視界を妨げていたガラクタを手に取った。 「おい、ルヴェル」 「何じゃ、シバ」 「アレがさ」 ルヴェルの表情は疲れたものだったのだが、シバのその言葉を聞いた途端に明るくなった。 「おお、本当か!」 「ちょっと来いよ!」 フィルを置いて人通りがやや少ない所に行った二人。何か話し合っているようだ。やがて、ルヴェルはシバが渡した薄い何かとガラクタを持って、嬉々としながら去って行った。 「どうしたの? ルヴェルさん」 「何したの?」 「ヤヨイの使用済みガラクタ付き生写真をちょっとな」 「……」 視界はかなり広くなったが、まだ遮るほどの荷物があった。 「俺としては売り物にならなさそうな物がまだあるわけだけど」 運ばされてから、ガラクタよりも持ちたくなかったものをフィルは見た。腐った食材だ。 「これはさすがに使用済みの抱き合わせ販売は出来ないよね?」 ヤヨイの使用済み腐った食材付き生写真を買うルヴェルの想像も出来たが、彼は今頃夕飯が違うとティコの罰を受けている頃だろう。 「まあな。これは残飯ってことで押しつけにいくぞ」 「どこに?」 「海猫亭」 この前、ふくれっ面したイヴが言っていた言葉を思い出した。 『もー、聞いてよフィル君! ちょー信じられないのよ! シバのヤツ! 健気に頑張っているイヴに対してさ!』 「……ナンバー45?」 「おっ、お前も商売のノウハウってヤツが分かってきたんじゃねぇか?」 褒められても全く嬉しくない。 かくして、フィルがやって来たと抱きつこうとし、その後シバに気づいたイヴは、ナンバー45に負け、フィルの持っていた腐った食材、言い換え残飯を全て受け取るハメになってしまった。 「何で、何でイヴにこんなことするの? フィル君まで!」 「ご、ゴメン、イヴちゃん……」 イヴには申し訳ないが、シバに日記のことを脅されるのは勘弁だし、そもそもこんなものをもう持ちたくない。 泣き叫ぶイヴを振り切り、フィルとシバは早足で海猫亭を後にした。 「何で、ルヴェルさんにガラクタ売って、イヴに残飯押しつけるの?」 「商売ガタキだからな」 「……へぇ」 すっかり夜も更け、やっとシバの便利屋に辿り着いた。フィルとシバは随分軽くなった荷物を店の前に置いた。 「さて、これで今日の仕事は終わりだ。手伝い助かったぜ」 「うん。もう二度としたくないよ」 日記を渡しに来ただけのはずなのに、気がついたら休日とは思えないほどの疲労感だ。 「そう言うなって、ほら、礼の品だ」 シバはポケットから一枚の紙を取り出した。暗いので見えにくいが、それは紙ではなかった。 「これは!?」 「シオの隠し撮り写真。今持っている中ではピカ一の作品だな」 「で、でもこれは……」 目をこらしてよく見てみる。撮られていることを全く知らない無防備な表情のシオがいる。 「嫌なら返してもらうぞ。他に売る相手はいくらでもいるしな」 「も、もらうよ!」 ふと、シバの先程の言葉を思い出した。 「ピカ一ってことは」 「まあ、もう何枚かはあるな。これは売り物だが」 「買うよ!」 その後、複雑そうな顔をしながらも、半分スキップを加えた歩き方をしたフィルを見送り、シバは店の鍵を開け、中へ入った。 シバは倉庫の明かりを消し、売り場を軽く見回した。掃除もしっかりした。 「ふう、これで全部終了だ。競馬にでも行ってくるとするか」 大きく伸びをし、そこで動きを止めた。 「おっと、その前に──」 ポケットから日記帳を取り出した。それをそのまま売り棚へ置く。 「フィルのやつ、バカだな。イヴのところでも取り扱ってたってのに」 そこには、『大人気! 商売のノウハウを書いたシバの日記帳重版決定!』というポップが飾られていた。 |