「おい、フィル、ぼさっとするなよ。はぐれるぞ」
「う、うん! ごめん、シバ」
 フィルはシバと二人で競馬場に来ていた。
偶然街中で出会い、シバが誘ってくれたのだ。賭け事にはあまり興味はないが、フィルは二つ返事で行くことに決めた。
 人、人、人。何処から集まってきたのだろう、たくさんの人々の熱気が競馬場に満ち溢れていた。
 売り子達の持つ食べ物の良い匂い。競馬の予想を売りつける怪しげな男達。サイコロで決めた予想だの、鳥が選んだ予想だの、中にはトウモロコシをむいた皮で予想を当てる、などという呼子もいる。まず、信用できそうにないそんな予想屋達の予想を集まった物騒な顔つきの男達が興味津々で聞いている。
 何もかもが珍しく、フィルは思わずキョロキョロとあたりを見回してしまう。
「おい」
 目の前を歩いていたシバがくるりと振り返ってぐいとフィルの腕をつかんで引き寄せた。
「え、な、何?」
「あんまキョロキョロすんな、田舎者丸出しだぞ」
 赤いコートを傲然とひるがえし、人ごみをすり抜けていくシバは街中を歩くように自然だった。
 毎日訪れるのが日課だと言っても過言ではないシバにとって目を引くものなどほとんどないのだろう。
「それに、スリだっていやがるんだ、サイフに気をつけろ。どうせ軽くするんならウチの商品についやせ」
「アハハ……うん、気をつけるよ」
 ふんと鼻を鳴らし、わずかに肩をすくめてからフィルの事をかえりみることなくスタスタと歩いていく。
 フィルは無意識にサイフを握り締めながら、その背を追った。


 出走前の馬達がゆっくりと歩いていく。黒毛、鹿毛、栗毛、葦毛……たくさんの馬にフィルはその姿を見ただけでドキドキしてきた。
 中には気が高ぶっているらしい馬が引き手を振り解こうといななきながら立ち上がる。
「チッ! あれが本命馬? 入れ込みすぎじゃねぇか。予想の立て直しだな……」
 などとブツブツ言いながら、シバは持ってきた競馬新聞に入念に書き込んだ。
「とりあえず、様子見でちっと流してみるか……。おい、フィル」
「……え? 何?」
 黒一色の立派な馬を見つめながら、馬に乗り輝く鎧を身にまとう己の姿を夢想していたフィルははじかれたように顔を上げた。
「それで、また賭けないのか? 競馬場に来て馬だけ見て帰って何が楽しいんだよ?」
「そうかなぁ、充分楽しいんだけど、俺。それに、あんまり持ってないし」
「ったく、そのためにここに来て増やすんだろうが」
「……うん、まぁそうだね」
 微妙に視線をはずし、フィルがうなずく。
 ティコもそうだが、イヴもそうだ。シバと言うとふらりと店にやってきて賭けに負けたら残飯やらガラクタを押し付け、閉店後にいたっては金を借りてはトンズラこくという……いや、もちろん、三倍にして返すこともあるが……二人曰く、「渡した金額の方が大きいわよ!」なのだそうな。
 それを耳にタコが出来るほど愚痴られたフィルにとってはそれでも競馬で金をもうけられる、と断言できるシバの神経がいまいちよくわからない。
(それが大人って言うものなのかなぁ……)
 どちらにせよ、生活に余裕があまりないフィルにとっておいそれと賭け事などにかまけてなどいられないのだ。
「ま、好きにすりゃいいさ。んじゃま、俺は馬券買ってくるか」
 楽しそうに鼻歌を歌いながらシバがするすると人ごみをぬうように歩いていく。
 しばらくフィルはその背を見送ってから優雅に歩く馬達に視線を戻した。
(やっぱりカッコイイなぁ! 馬って買ったり飼う事になったらどれぐらいお金とかいるんだろう……。あ、でも、その前に鎧と武器とか……その前に塩とキャベツ買わなきゃ)
 どんどん所帯じみた思考になりながらもフィルはにこにこと嬉しそうに馬を見ていた。大量の馬券を握り締めたシバが戻ったのも気づかないほどに。


「クソッ! なんだよ、この予想。ぜんぜん参考にならないじゃねぇかよっ!!」
 シバの機嫌が一レースごとに悪くなるのを肌で感じながら、フィルはちょっとだけシバから離れた。
 競馬のことはサッパリわからないのだが、どうやら連敗しているらしい。
 レースもその半分を終わったらしく、シバはどうにかして負けを取り戻そうと眉間に深く皺を刻み込んでなおいっそうブツブツとつぶやいている。
「おい、フィル」
「な、何?」
 呼ぶ声に苛立ちがにじみ出ている。フィルはびくりと身をそらしながらおずおずと応える。
「お前も賭けろ!」
「え? えええええっ!?」
「競馬場に着てるんだ、いっぺんぐらい馬券を買え!」
「で、でも……よくわからないし……」
「何事も経験なんだよ。いいから買え!」
「う、うん……」
 尖った声の端々から『お前だけ無傷なのは許せねぇ!』というシバの心の声がにじみ出ていた。シバの説得力につたないフィルの口答えが適うわけもない。
 フィルはシバに競馬新聞を借りて書かれている文章を目で追う。
(これ、どう見るんだろう……)
 かろうじて馬の名前が並んでいるんだな、というところまではわかるが専門用語が羅列された記事は知識がいちじるしく足りていないフィルにはさっぱりだ。
「よし、見たな。おら、とっとと買いに行くぞ!」
「ええっ!? ちょっと待ってよ、シバ!」
「ちんたらするな! 時は金なりっていうだろっ」
「わわ、待って待ってー」
 ズカズカと再び群集を割って歩いていくシバを半泣きでフィルは追いかけた。
「なんでこんなことになったのだろう?」
 フィルは思わず口に出して問いかけたが、当然、何処からもその答えは返ってこなかった。


「……お前な……確かに馬券買えっつったけど、どう考えてもあたんねぇだろ」
「べ、別にいいじゃないか。どうせ千£しか賭けてないし……」
 まぁ俺の金じゃないからな、とあっさりクールダウンしたシバが明らかに興味を失ったらしくフィルから視線をはずした。
 あわあわと新聞を見てほとんど考えるまもなく馬券を千£で一枚だけ買った。
 別に馬の調子を見て、とか、勘が! とか、そういうものは一切ない。
 ただ、あるとすれば名前だ。『シオカゼライナー』という名前がぱっと飛び込んで、これにしよう! と即座にフィルは思った。
 後から考えれば好きな女の子の名前がついてるから、なんて恥ずかしい理由だがどうせドブに捨てるのならそっちのほうがいいと思ったのだ。
「ゲートに入ったぞ」
「うん!」
 小柄な騎手と馬が小さなゲートにおさまり、合図を待っている。フィルは「絶対当たらない」と思っているのにもかかわらずドキドキと高鳴る胸を押さえた。
「がんばれ!」
 小さくフィルは声援を送った。次の瞬間、ゲートが開き、一斉に馬は弾丸のようなスピードで走り出した。
 集団が時間がたつにつれて細長く伸びる。
「おし! 行けっ」
 シバが短く応援を送る。背後の群集も熱っぽい応援の声が飛び交う。思わず耳をふさぎたくなるほどの大合唱だがフィルは不思議と気にならなかった。おそらく、手にした一枚の馬券のせいだろう。
 ぐんぐんと馬達がスピードを上げて行く。カーブを鋭く曲がり、直線を駆け抜ける。
「よし! そこだ! って、んなっ!?」
 ゴール間近、一頭の馬が後方からグンッグンッと追い上げてきた。
 最小の動きで目の前の馬を避けるとそのまま突っ切っていく。
「待て、待て、待て!」
 慌てふためくシバの声もむなしく、馬はゴールを駆け抜けた。
『うわあああああああああああ!!』
 鼓膜が破れそうな大音響が響き渡り、引きちぎられた馬券が空を舞い、聞くに堪えない罵詈雑言の大合唱が競馬場を包み込む。
「ふざっけんなあああああ! 最低人気の馬が行きやがったッ!」
 シバもまた、怒りの表情で馬券を引きちぎると空に撒き散らす。
「……5―4?」
 ぽつっとフィルがつぶやく。
「あん? ああそうだな。つーか、万馬券か。倍率372倍だぁ? ありえねぇ数字だな」
「……たった」
「あ? なんだ、どうかしたか?」
「当たった、当たったよ! ほら!」
「な、にぃ!?」
 ぴらりと目の前に差し出された馬券には確かに5―4と書かれてある。……当たっている。間違いない。
「やったぁ! これで生活費が! ううん、新しい武器だって買える!」
 しっかりと馬券を握り締め、間違いなく最上の笑顔を浮かべたフィルはぴょんぴょんと飛び上がって喜ぶ。
「よし、でかした! 次にドカンと賭けるぞ!!」
「だ、ダメだよ! これだけあれば十分だし、次ぎ当たるかわからないじゃないか」
 シバの目の色が明らかにかわっている。
 危険を感じて慌ててフィルが馬券を握り締めなおす。
「何言ってんだ、そいつでさらにドカンと当てれば大もうけだろ! ほら、俺が三倍にしてやっから」
「そういって戻ってこないってティコさんやイヴちゃんが言ってたけど」
「それが賭けの醍醐味だろ! だいたい、いつもってわけじゃねーだろ!」
 確かに戻っては来る、ほんのたまにだが。疑いの眼差しでじーっと見つめられているシバはふーっとため息を吐いて肩をすくめる。
「いいか、フィル。わらしべ長者を知ってるか?」
「わらしべ長者……?」
「わらしべ長者はそう、ひょんなことで手にした万馬券を次々に臆せずひるまず賭け続け、国すら買い取れるほどの巨万の富を築いた伝説のギャンブラー! いいか、やつを乗り越えるのはお前だ、フィル!!」
「いや、別に俺は巨万の富なんて要らないし、だいたいわらしべ長者ってそんな話じゃ」
 パシッと軽い音が響く。「あ」
 にやりと不適に笑ったシバがわらしべ長者の話に突っ込んだフィルの手から馬券を掠め取ったのだ。
「んじゃま、三倍……いや、十倍に返してやっから安心して待ってろ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、シバ! ダメだよ、ダメだってば!!」
 ひょーいひょーいとシバは恐ろしいほどの軽やかさで群集をすり抜けていく。慌てて足をもつれさせながら追おうとしたが、シバはどうやっても追いつくことが出来なかった。
 ぺたんとフィルは力なく座り込み、遠くで響く馬のいななきを呆然と聞いていた。


「競馬場……?」
 今日も飛びっきりの快晴のイシュワルド。
 偶然、シオとフィルは仕事の上がりが同じになり、とんとん拍子で二人っきりで遊びに行くことになった。頬を紅潮させ、明らかに上機嫌だったフィルの顔がその名称を聞くなり一気に顔が険しくなった。
「うん、一度いってみたいなぁって……って、どうしたの? フィル君」
 シオは一気に険しくなったフィルの顔つきにびっくりしながら首をかしげた。
「馬が一杯いるんでしょ? 一度ぐらいいってみ」
「ダメだよッ!」
「え?」
 いつもは穏やかなフィルが血相を変えて力いっぱいシオの言葉を否定した。そのことにシオは目をぱちくりさせる。
「あんなところにいったら、シバみたいになるよっ」
「……なんだかよくわからないけど、シバみたいになるのはイヤかも」
 何気なくひどいことを言いながらもシオは首をかしげた。フィルの様子が明らかにおかしい。
「そうだよっ。競馬なんて、競馬なんて……ッ」
 そこまで言ってフィルがしゃがみこむ。
「えっと……フィル君? えっと、えっと、ゴハン食べに行こ! 私お腹すいちゃった」
「う、うん……」
 シオは頭の上にハテナマークをたくさん出しながら、それでも沈み込んだフィルを引き上げた。
(なんかあったのかなぁ……?)
 聞きたかったが明らかに聞いてほしそうにないフィルの態度に首を傾げつつもシオは不満げに口を尖らせた。
(うう、言えない、言えるワケないよ……)
 シオが言いたいことはわかったが、フィルとしてはとても口に出せない。
 結局、大金は露と消えた。シバ曰く、「レースは荒れに荒れまくった」とのことだが、結果は変わらない。
 そういうこともあるさ、と爽やかに言ってしわくちゃの福引券を押し付けて逃げたシバ。
 フィルはすきっ腹を抱えて寮に戻り、空腹を誤魔化すためにお腹を暖めながら眠った。
 人と言うのは現金なものだな、とフィルはしみじみと思う。
 当たった途端、有頂天になり、なくなったら地獄の底へ落ちる……ないことを前提にしていたのに、だ。
「やっぱり、コツコツと貯蓄するのが俺にはあってるんだよな、きっと……」
「ん? 何? フィル君?」
「あ、いや、なんでもないよ。それより、今日は何処でご飯を食べる?」
 その後、食事をし、おごろうとしてその金額に打ちのめされたフィルはそれでも見栄を張ってシオとワリカンにした。
 それでわずかなサイフの蓄えは底をつき、再びお腹を暖めて寝ることとなるのだが、このときのフィルには想像もつかなかった……。