ルヴェルがティコの弟子になってから8年の月日が経とうとしていた。
 毎日のように、炊事、洗濯、雑用に追われ息をつく間もなく忙しく働いていた。
 ティコの弟子……というより、その扱いは下僕に近く少しでも仕事をサボろうとすれば容赦なくティコ愛用の鞭が風を切り、ルヴェルの体へ生傷をつくった。
 ルヴェルがいつものように朝食をつくりおえ、一通りの雑用を済ませティコを起こそうと寝室へ向かった。ドアを叩き「師匠、朝ですじゃ」と声をかける。寝室から返事はなく、ルヴェルはドアを開いた。
 部屋の中は薄暗く、部屋にある窓から朝日が差し込むことはない。カーテンが窓を覆っている。部屋の中にある机の上には、フラスコやら魔術書が机から落ちないのが不思議なほど散らかっていた。
「師匠、朝ですじゃ」ともう一度ルヴェルが呼びかけると、ベッドの上がもぞもぞと動き「うるさいわね、まだ真っ暗じゃない、いま何時だと思ってるの?」と答える。
「それは、カーテンを閉め切ってるせいですじゃ、師匠、早く起きないと店の開店時間に間に合わないですじゃ」
「今日は臨時休業」
 ティコは小さいながらも、イシュワルドで魔道店を営んでいた。マニアックな物がそろう店と有名で遠方からわざわざ訪れる客も多かった。
「それはダメですじゃ、ようやく店も軌道に乗りかけ……」
「うっさいわね、口答えする気? 今日は休業、これは決定事項なの……魔道品も作れない。魔道士も不便なものよね、風邪のときには風邪を治すため、強制的に全魔力をそっちに使うなんて……ルヴェル君も魔道士のはしくれならそれくらいの知識はあるでしょ? というわけで、風邪薬買ってきて」
 ティコは気だるそうにそれだけ言うと布団を頭までかぶった。
 病気のときには、魔法が使えない。それは魔道士の常識で、もちろんルヴェルも知っていた。
 これ以上なにを言っても無駄だと思ったのか、ルヴェルは寝室から出て店先に『本日休業』と看板をかけたあと、溜め息をひとつつき薬局へ向かった。

 海に面した都市『イシュワルド』年間を通して温暖な土地柄、人々にとっては住みやすく、第二の人生をイシュワルドで過ごす者も多かった。
「馬鹿は風邪ひかんというんじゃが、あれは嘘じゃったのか……」
 ルヴェルは日頃の鬱憤を晴らすように、薬局への道中、文句ばかり言っていた。そんな彼を行き交う人々は、白い目で見つめていた。
「あのお兄ちゃん、さっきから一人でなにか言ってるよ」と興味津々の眼差しを向ける少年に、母親は「見ちゃだめ!」と抱きついて、顔を胸へとうずめる。少年はそのとき、ただ事ならぬ気配を感じたに違いない。
 しかし、そんなことを気にするルヴェルではなかった。ティコに首輪をつけられ犬のごとく四つん這いで街中を歩き回ったことすらあるルヴェルにとって、それは大したことではないのであろう。

 そんなこんなで、薬局に着いたルヴェルは棚に置かれた風邪薬を一通り見たあとに、一番安い風邪薬に手を伸ばす。
「師匠には、これで充分じゃ」
 いやらしく笑ったあとに、会計を済ませ外へと出る。
 まるでルヴェルの気持ちを表したかのような、快晴の青空がどこまでも広がっていた。
 ティコの弟子になってから、心休まる時間はひとときもなかった。どこかいつも監視されているような、いつも誰かに見られている、それはルヴェルにかけられたティコの魔術のせいだった。今はその気配をまったく感じない、ルヴェルにとっては本当に自由な時間だった。
 このまま帰りたくない。
 そういう思いが、ルヴェルの頭の中に渦巻いていた。なぜ自分がそこまでしなければいけないのか。自分が師匠に何かをしてもらったことがあるのか。答えはすぐに出た。
『このまま、逃げよう』
 体が急に軽くなるようだった。まるで手足をつないでいた、重たい鉛が外れたような感じだ。

「マスター、酒じゃ、酒持ってこーい」
 体は自由になったものの、財布までは自由にならない。軽い財布でいける場所は限られ、安居酒屋でささやかながら自由の祝杯をあげていた。
「ルヴェルさん、そんなに飲んで大丈夫なんですか?」
 ルヴェルの隣でジュースを飲んでいるフィルが言った。
「大丈夫じゃ、今日はわしのおごりじゃから、遠慮はいらん」
「じゃあ、お言葉に甘えて、マスター、おかわりお願いしまーす」
 フィルの隣でハーブティーを飲んでいるシオが言った。
「おう、シオちゃんは、同じのでいいかい?」
 店内は夕方ということもあり、仕事帰りの男などで活気付いていた。マスターも稼ぎ時と言わんばかりに、威勢の良い声を発し店内はうるさいくらいに賑わっていた。
「でも、ルヴェルさんがおごってくれるなんて珍しいね。なにか良いことでもあったの?」
 から揚げを頬張りながらシオが聞いた。
 ルヴェルは待ってましたといわんばかりに立ち上がり「これほどまでに良い日が他にあろうか……思えば今までは辛い日々じゃった。しかし、しかしじゃ、それも今日まで、明日からは自由の身じゃ」と答える。
「あったみたいね」
「そうだね」
 シオとフィルが苦笑しながら、ちょっと呆れたような目でルヴェルを見つめた。

 それから数時間が過ぎて、店内も少しだけ落ち着いてきたようで、マスターは空になったコップを洗っていた。
「マスター、酒じゃ!」
 マスターはルヴェルの差し出したコップとは別に新しいコップを棚から取り出して、その中に酒を少しと生卵、赤い調味料を入れてルヴェルの前に差し出す。
 ルヴェルはそれを不思議そうに見つめ「ん? わしはこんな飲み物を頼んではおらんぞ」と言った。
「いえ、それはあちらのお客さんから……」
 マスターはそこで言葉を区切り「……ヒッ」と小さく悲鳴を上げカウンターの影に隠れた。ルヴェルが振り向くとそこには、背後にゴゴゴゴゴ……と聞こえそうな形相で立っているティコがいた。
「ルヴェルく〜ん、こんなところで、なにしてるのかな〜」
 言葉とは裏腹に、恐怖で人が死ねるなら、目を合わせた瞬間死んでしまいそうな迫力。
「ぎゃぁぁぁぁ……」
 刹那、店内にルヴェルの悲鳴が響き渡る。

 それから数日間、その店は休業し、代わりに改装中と大きく看板が掲げられることになった。風の噂では、隕石が降り注ぎ店が半壊。爆発物を持ち込んだ客のそれに引火し、大爆発。と街人は言うが、原因は定かではない。
 しかしながら、それから数日間。街外れにある建物の中で3日3晩、男の悲鳴が聞こえてきたという。
 ルヴェルがもし、ティコが風邪の薬に生卵を入れた酒を好んで飲むことを知っていれば、もう少し違った結末が訪れていたのかもしれない……。