魔女は夜に目を覚ます。
 人々が眠った夜更け、魔物と呼ばれる人に災いをもたらす怪物が活動を始める時間と時を同じくして、彼女ティコ=オールリンも目を覚ます。真っ直ぐ伸びた髪の毛は、常に魔力の影響を受け紫色をしていた。そして瞳は更に深い紫色をしている。

「まだ、寝足りないわ」
 目を開けると辺りは何も見えないほどに真っ暗で、ルヴェルの寝息だけが聞こえる。一欠けらの光もない空間に手を伸ばし手の平を上に向けて広げると、光を忘れた空間にポッとこぶし大の発光球体が現れた。初歩的なライティングの魔法だ。
「辺りが騒がしいわね、眠れないじゃないの」
 聴覚では捉えることの出来ない『音』が不愉快で眠れない。音というよりは強い魔力の共鳴といった方が適切だろう。ここ2、3日ずっと鼓膜の奥に響いている。
「ルヴェル君には、聞こえてないみたいね」
 隣ですやすやと寝息をたてている弟子の姿が気に食わなかった。ティコは枕を思いっきり振り上げ、ルヴェルへ向けて投げつける。「ふぎゃっ」という声の後にルヴェルがゆっくりと起き上がる。
「師匠、なんですじゃ? こんな夜更けに」
「ルヴェル君には聞こえない、この音」
 ルヴェルが首を傾ける。
「はて、わしにはさっぱり聞こえませぬが」
 やはり思った通りだ。ただ単に強い魔力同士の共鳴なら、少しでも魔力のあるものなら容易に気付くが、意図的に魔力を抑えている。もしくは私の魔力に同調させている。
 後者の場合、自分の存在を隠すため、もしそうでなければ……。
「ルヴェル君、仕事よ」
「こ、こんな夜更けに、なんの仕事ですじゃ?」
 ルヴェルは見るからに不満そうだが、ここでのルールはティコであり、ルヴェルに選択の余地はなかった。
「魔物退治、それもびっきり上物よ」
 ルヴェルの顔が見る見る真っ青になっていく。ティコが上物というのだから、並大抵の魔物ではない。
「いやじゃー、わしはまだ死にたくないんじゃー」
 ルヴェルがティコから逃げるように、部屋の隅へと四つん這いで移動する。なんとも間抜けな光景だ。
「私に、今ここで殺されるのと、どっちがいい?」
 何度も言うがルヴェルに選択権はないのだ。諦めたルヴェルは静かに首を振り、覚悟を決めて立ち上がった。
「そうね、私が負けるはずないんだけど、作戦を立てた方が得策ね」
 ルヴェルがゴクンと喉を鳴らし唾を飲んだ。
「ルヴェル君が囮になる、または人質になって相手の隙を作る……相手の隙をついて私が葬り去る……って作戦で行きましょ」
「わしはどうなるんじゃ?」
「もちろん死ぬわよ」
 ティコは満面の笑みを漏らしながら、言い切った。
「いやじゃ、そんな作戦は絶対いやじゃ、わしはまだ死にたくないんじゃー」
 ルヴェルの覚悟は意外と弱いらしい……というより、師匠を守り死ぬのなら絵にもなるが、囮や人質になって、相手もろとも葬り去られるのは格好悪いことこの上ない。ルヴェルがティコの非道さを再確認した瞬間だった。
 部屋の隅に追い詰められたルヴェルは、壁に張り付い行きたくないと必死に抵抗する。
「いいから、行くわよ」
 ティコは嫌がるルヴェルの首に、首輪のような物をつけた。首輪にはなにやら鎖のようなものが付いている。ティコが鎖を引っ張ると、ルヴェルの口から「きゃん」という情けない悲鳴が漏れて、壁から引き剥がされ、そのままずるずると引き摺られる。散歩を嫌がる犬と必死に連れて行こうとする飼い主に見えなくもない。

 ドアを開くと、涼しいビュッと音を立てて部屋の中へ吹き込み、ティコの髪がふわりと揺れた。
 夜にもなると、魔物の活動が活発になり、森の方からは獣の雄叫びが聞こえるが、今日に限っては、獣の雄叫びが聞こえなかった。静まり返った森は、思い出したように時折吹く風に、ざわざわと騒いだ。
「今日はやけに静かじゃ」
 ティコの熱心な説得に折れたルヴェルが言った。今は首輪も外されている。
「そうね」
 新月でもないのに森が静まり返っている。ルヴェルは拳を握り森をにらみ付けた。何かがいる……ルヴェルもいつもとは違う森を見て、強大な魔力を秘めた何かがいる事を感じていた。
「不気味じゃ……」
 ルヴェルの顔に一筋の汗が伝う。今の森は、どう表現していいのかわからない……あえて言葉で表現するなら『森が脅えている』とルヴェルは思った。
 ティコはルヴェルを差し置いて、欠伸をかみ殺しながらすたすたと森の方へ歩き出す。
 強い恐怖は、どことなく高揚感と似ている。立っているだけで足が震え、息をするのも躊躇われるほどの緊迫感、緊張感をルヴェルは感じていた。
「ほら、ルヴェル君もそんなところに突っ立ってないで早く行くわよ」
「あぁー、師匠、師匠にはこれから強敵に挑む緊迫感、緊張感はないんですじゃ?」
「ないわ」
 ティコは欠伸をしながら、ルヴェルの問いに答える。ムードも何もない女じゃ、これだから彼氏の一人も……。
「なんか言った?」
「いえ……なにも」
 ルヴェルは嫌がる体を無理やり動かし、ティコの後ろをとぼとぼ歩く。時折、深い溜め息をつきながら……。
 こうして魔女と忠実な犬は森の中へと消えていった。

「ここね」
「いかにもって場所じゃ」
 ティコとルヴェルは、断崖にぽっかりと開いた洞窟を見つめながら言った。ライティングの魔法も光を増してふわふわと漂うが、洞窟の奥までは照らしてくれない。
「ルヴェル君、先に行って」
「えっ?」
 ティコの言葉に動揺を隠せないルヴェル。
「じめじめした場所は、嫌いなのよ……もし、足でも滑らせたら大変じゃない、だから前を歩いて」
 ルヴェルはティコの言葉に納得したのか、洞窟の中へと入っていく。
 ティコはルヴェルの足元ではなく、自分の足元を照らしルヴェルの後ろを歩く。5回ほど転んだ後に、弟子が転んでも大変じゃないのだろうかと疑問が浮かんだ。

「それにしても、洞窟は嫌だわ、じめじめしてるし、臭いし」
 歩いていたティコの体に、何かがドンッとぶつかり尻餅をつく。
「痛いじゃないの、何なのよ」
 ティコが何にぶつかったのかと確認するように、ゆっくりと顔を上げる。
「はぁ、ルヴェル君、こんな所で師匠を押し倒すとは、どういう了見かしら?」
「ち……違うんじゃ……あっ、あっ、あそこに……」
 ルヴェルはガクガクと震えながら、洞窟の奥を指差す。
「あそこに、なんなのよ?」
 ティコの疑問に答えたのはルヴェルではなく、大地を揺るがすほどの大きな咆哮だった。洞窟の上からパラパラと小石が落ちる。
「なんなのよ! うるさいじゃない」
 耳栓でも持ってくれば良かったと後悔しつつ、ティコは体を動かして、洞窟の奥を確認する。薄暗い空間に時折炎が揺らめく、呼吸をする度に口からブレスが漏れているのだ。
「なによ、ただの、ドラゴンじゃない」
「た……た……ただの、ドラゴンじゃない……じゃないですじゃ! あれは『紅華龍マルドゥーク』ですじゃ、魔道書や歴史書で、たびたびアリシアと比較される龍じゃが、その凶暴な性格故に女神シーダの加護を受けられなかった龍なんじゃ」
「へぇー、そうなの、よく知ってるわね」
 ティコが感心したように言うが、相変わらずルヴェルはガクガクと震えている。
「知ってない方がおかし……」
 ルヴェルは口元を押さえ、息を潜める。
「気付かれてない今なら、逃げることが……」
「私の眠りを妨げる者は、なんぴとたりとも許さないわ……それに、気付いてるわよ、さっきから思いっ切りこっちを睨み付けてるし」
 龍の目はこちらを睨み付け、今にも襲い掛かりそうな勢いだ。口元の炎も強さを増して洞窟内を赤々と照らし出す。と、その瞬間、赤々と光るブレスがティコとルヴェルに襲い掛かる。
「もぅ、ダメじゃ!」
 死を覚悟したルヴェルは頭を抱えて身を伏せた。
「はぁ、動くのも面倒だわ」
 ティコが欠伸をしながら片手を地面についた、その瞬間だった。目の前に大きな氷の膜が地面から盛り上がる。なかなか訪れない死の瞬間に、ルヴェルは顔を上げた。
 薄い氷が目の前に迫り来るブレスを弾いていた。数メートル先に眩しいくらいのプレスが迫っているのに、全く暑さを感じず、むしろ涼しくさえ感じる。
 暑さは数ミリ程度のすぐに解けそうな氷だが、解ける気配が全くない。
 ルヴェルは目の前の光景を唖然として見ていた。
 そして、やがて炎は徐々に収まり、洞窟本来の暗さを取り戻す。目の前には魔法で出来た光だけが揺らめく。
「さて、行きましょうか」
「行くって、どこへですじゃ?」
 少しだけ冷静さを取り戻したルヴェルの疑問は、ドスンという大きな地響きによって掻き消された。
 ティコは起き上がり、龍のいた方へ歩いていく。
「し……師匠! そっちにはドラゴンが……」
「あぁ、もう倒したわよ」
「へっ?」
 光がゆらゆらとドラゴンのいた辺りで強い光を放つ。ドラゴンは地面に倒れ、全く動かない。
「い……いつの間に、さすがわしの師匠じゃ」
 ルヴェルは感嘆の声をあげて、立ち上がりティコの背中を追いかけて歩く。
「へぇ〜、これがその何とかって龍なのね」
「マルドゥークですじゃ」
「名前なんてどうでもいいわ……それほど凄い龍なら、高く売れそうだわ」
「師匠、口からよだれが出てるんじゃが……」
「いちいちうるさい」
 と叫びながらティコは思いっ切りルヴェルを蹴飛ばした。
 ルヴェルは「はぅっ」と情けない声をあげた後に「師匠!」と大声で叫ぶ。
「今度は何よ」
 ルヴェルの方を見ると、龍の子供が母の元へ擦り寄って行く。この龍は子供を守る為に、この洞窟へ隠れ、誰にも見付からないように魔力を抑えていたのだろう。
「全く、なんて母親なの! こんな子供を残して死ぬなんて」
「自分が殺した事を忘れているんじゃろうか……」
「そういえば、そうだったわね」
 忘れていた。
「それにしても、可愛いですじゃ〜、ドラゴンとはいえ、子供はみな可愛いですじゃ〜」
 母の亡骸へ擦り寄る子供を見て、ルヴェルは複雑な心境だった。
 そして、ルヴェルの心境を察したのか、ティコが子供の龍を抱きかかえる。ルヴェルは無き母とティコが重なって見えた。あぁ、師匠にも母性があるのじゃなと感心したひと時であった
……そのときのルヴェルはそう信じて疑わなかったのだ。
「うふふ、この子も高く売れそうね……」
 ティコの顔がふふふと笑うように歪んだ。
「やめろ……やめるんじゃー」
 ルヴェルの叫びがむなしく洞窟内にこだまする。
「あぁ、わしが不甲斐ないばかりに、悪の手によって……伝説の紅華龍は息絶えたんじゃ……」
「なに言ってるのよ!」
 ルヴェルはうううっと涙を流している。ティコは抱きかかえている息絶えた子龍を手に持ち替えて、息絶えた子龍でルヴェルの頭をボカッと殴る。
「痛いですじゃ……なにもかどで殴ることはないですじゃ……」
「どこがかどよ? そもそも龍にかどなんて無いわよ」
 龍に角はあっても、かどは無い。ティコの意見はもっともだ。
「この子は、持って帰れそうだけど……そこの大きいヤツは、明日にでも商人を呼んで売りさばきましょ」

 こうして、凶悪な龍はティコの手によって倒され、安らかな眠りを取り戻したティコであった。