「うわぁ〜、おおきぃ」
 イシュワルドアカデミーを見上げ、イヴは感嘆の声を漏らした。左右に塔のようにそびえ立つ建物、その中央に三階建ての西洋風の建物。まるで一昔前の宮殿のようだ。
 イヴが今日から通うことになったイシュワルドアカデミーには2つの学科に分かれている。主に勉学を主体とする普通科、そして魔法科の2つだ。勉学に対しては天才、神童と呼ばれているイヴも魔法に関しての知識はさっぱりだった。

 イヴは目を輝かせながら、ツインテールというには少し短い赤い髪の毛をなびかせながら校舎へと歩いていく。13歳という異例の若さでアカデミーに入学したイヴは、入学前から校内ではちょっとした有名人になっていた。
「ねぇ、ねぇ、あの子じゃない?」
「あぁ、例の天才児でしょ。知ってる知ってる」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で話している女子生徒にイヴは「ふんっ」っと鼻を鳴らした。辺りを見渡すと遠巻きにいくつもの視線を感じた。
 ちょっとした優越感に浸りながら、ゆっくりと一歩一歩アカデミーへと歩を進めていく。

「遅刻じゃ、遅刻じゃ!」

 突然背後から騒々しい声と共に、どたどたと足音が近づいてくる。なんなのよ、雰囲気ぶち壊しじゃない。イヴが背後から迫ってくる人物に文句の一言でも言おうと振り返った時だった。

「あっ、あぶない!」

 振り返った瞬間、目の前が何かに覆われて真っ暗になった。その直後、何かにぶつかったような衝撃がイヴの体を襲う。いつの間にか目の前に広がっているのはアカデミーではなく、青空へと変わっていた。

「何なのよ、いったい!」

 イヴは何が起こったのか分からず、大声で叫んだ。

「すまん、急いでおったのじゃ」

 答えなど期待してなかったが、誰かがそう答えた。声の発信源を確認するようにイヴはゆっくりと体を起こした。薄紫の短い髪の毛を何度も上下に揺らして、頭を下げる青年がそこにいた。
 イヴはやっと何が起こったのか理解した。きっとこの青年に後ろから押し倒されたのだろう。今まで混乱していた自分の中から沸々と怒りが湧き上がる。
 入学早々、イヴにこんな恥をかかせたからだ。

「おや、なんでこんな所に子供がおるんじゃ?」

 青年の言葉がイヴの感情を逆撫でする。この青年に悪気は無いのだろうが、アカデミーの制服を着ていることにすら気付いていないのかもしれない――いや、きっと気付いていないのだろう。

「まだイヴの事を知らない生徒がいたのね、いいわ、教えて……」

 イヴは湧き上がる怒りを表面に見せることなく淡々と言っている時だった。

「あぁ、そうじゃ! すまん、わしは急いでおるので」

 青年はイヴの言葉が終わる前に、言葉を重ねた。そして、思い出したように校舎へと駆け出して行った。イヴはその背中をポカンと眺めることしか出来なかった。徐々に小さくなっていく背中にイヴは深い溜め息をついた。
 私より年上なのは明らか……と言うよりアカデミーの生徒でイヴより年下を探すことは不可能だ。見るからに二十歳前後と言った所だろう、ただその年になって礼儀のれの字も知らないような人達と同じ教室で授業を受けなければならない――。自分とあまりに違う人を見て不安な気持ちになった。
 それに……。

「こんな、大切な物まで落として……」

 青年のいた辺り、イヴのちょうど足の辺りに青年の持ち物であろう生徒手帳が落ちていた。

『Level=Alstar(ルヴェル=アルスター)
イシュワルドアカデミー 魔法科2年』

生徒手帳をスカートのポケットへしまいもう一度大きな溜め息をついた。

「やっぱりこれ、イヴが返さないといけないのかなぁー」

 イヴは少しだけ汚れがスカートをパンパンとはたいた後に、何事も無かったかのようにアカデミーへと歩を進めた。成り行きを見ていた多くの生徒は、友達同士で「イヴちゃん、大丈夫かなぁ」「声かけてみたら」とそんなことを言っていたが、誰一人声をかけてくるものはいなかった。


 アカデミー1日目が無事終わり、家への通学路を歩いている時だった。大通りから折れてちょうど小道に差し掛かったとき、目の前に不良が二人地面に腰を下ろして煙草をふかしていた。イシュワルドではこういう人達はあまり見かけない。
 イヴは無視して二人の横を通り過ぎようとした時だった。

「よう、ねぇちゃん、あんたアカデミーの学生か?」

 二人はどうもイヴを無視しようと思っていなかったらしい。

「そうよ」

 一言だけ発して、二人の前を通り過ぎる。っと不意に一人の男が立ち上がり、肩に手をかけてきた。

「人が話しかけてんのに、無視すんなや。ガキは大人に対する礼儀ってものをしらねぇらしいな」

 礼儀を知らないのはどっちだ、っとイヴは心の中で毒突いた。

「ちゃんと答えたじゃない、ナンパには興味ないの、それに……」

 イヴは男が手をかけた方の肩を指差して「これって罪になるって知ってた?」と言った。その後、呆然とする男の手を振りほどいて背中を向け歩き出す。一刻の時を置いて、激昂を帯びた男の声が聞こえてきた。

「ふざけんな、このアマ!」

 厄日でもないのに、今日は面倒臭いことばかりだ。思い出したくも無い朝の出来事を思い出して、何度ついたか分からない溜め息を吐く。しつこい男はこれだから嫌いだ。

「わしの見たところ、お主達が悪いように見えるが……」

 不意に後ろから、この場に不釣合いな緊張感の無い間延びした声が聞こえてきた。この声を聞くのは初めてではない気がした。
 振り返ると不良の向こう側に、薄紫色の髪の青年が立っていた。

「ちょっと、あんた……」

 イヴを助けようとしてくれている。直感でそう悟ったが、見るからに不良の方が強そうに見える。しかも相手は二人、見ず知らずの人に借りを作るのも癪だし、ボロボロの雑巾になって助けてやったぜ、ってしてやったり顔をされても迷惑だ。そんなことされて喜ぶのは三流アニメの世界だけだ。

「あぁ……あんだ、あんちゃん……ってあんた、まさか……」

 さっきまで顔を真っ赤にして怒っていた不良の顔が青ざめていく。

「すまんが、わしの顔に免じて身を引いてはくれぬか」

 聞こえているのかいないのか、不良二人はまるで妖怪でも見たかのように、大通りへと姿を消した。わけもわからずこの場に残された自分と青年を置いて。
 疑問に答えるように青年が口を開く「あぁ、わしを恐れて……というより、わしの師匠の怖さを知っておるのじゃろう」と苦笑いを浮かべた。

「それじゃ、わしはこれで……」

 青年はそれだけ言うと背を向ける。イヴはその背中に声をかけた。

「待って!」
「ん? なんじゃ」
「あなた、イシュワルドアカデミー二年のルヴェル=アルスターさんですね」

 平和そうな青年の顔が驚きへと変わる。頭の上にいくつものクエスチョンマークが浮かぶ。

「ど……どうしてわしの名を知っておるんじゃ?」

 ポケットに入っているルヴェルの生徒手帳を取り出し、目の前でひらひらと躍らせてみせた。

「あっ、それは、ずっと探しておったんじゃ! でも、どうしてそれを持っておるんじゃ?」

 ルヴェルはイヴの顔を不思議そうに覗き込む。もしかして、朝ぶつかったことすらも忘れているのではないか……イヴは一瞬だけそう思ったが、さすがにそれは無いだろう。

「とにかく助かった、捨てる神あれば拾う神ありじゃ」

 引用が間違っていると思うが、こんなことでいちいち突っ込みを入れていたら、彼とは付き合っていけない――そんな気がする。

「これでおあいこ……貸し借りなしね」

 っとイヴは笑った。ルヴェルは何が何だか分からない、といった顔をしている。


 今までイヴの周りには天才としての彼女しか見ているものはいなかった。距離を保ちどこかよそよそしく接する人ばかり――イヴも自分はそういう風に振舞うもの、学校とはそういうところだと思っていた。もちろんアカデミーも同じだ。だけどこれからのアカデミー生活、彼と一緒なら少しは楽しめるかもしれない……イヴは心の中でそう思った。